ケインズのエッセイから考える、FIREの先にあるもの

ケインズは20世紀の経済学者であり、その功績はケインズ経済学として社会の歴史においても重要なキーワードとして取り上げられています。

そんなケインズが1930年に残したエッセイ、「孫たちの経済的可能性」から昨今話題になっているFIREを考えるきっかけが見えてきたので少し考えてみたいと思います。

孫たちの経済的可能性

ケインズの著作である「孫たちの経済的可能性(原題:Economic Possibilities for our Grandchildren)」は1930年に広く知られるようになったエッセイです。

エッセイなので何かの理論的な主張をしているわけではありませんが、1929年から続く世界恐慌の最中で、世の中を包んでいた経済への失望感に自らの考えを投げかけたものとなっています。

当然元々は英語の著作ですが、有名なものであるため全文の日本語訳がいくつか見つかります。

特に気になる部分は原文も参照しますが、基本的には上記の日本語訳を引用しながら話を進めます。
(一部意味が取りづらい部分は引用にあたって日本語訳を修正しています)

時は1930年

冒頭、このエッセイはまずこのような一文からはじまっています。

私たちは今まさに、経済的悲観論のひどい発作に苦しんでいる。19 世紀を特徴づけた、すさまじい経済進
歩の時代は終わったとか、生活水準の急激な改善は鈍化する(少なくともイギリスでは)とか、今後の数十年で生活水準は、向上するよりは低下する見込みが高いとかいうのを、よく耳にするようになった。

このエッセイが発表された1930年は世界恐慌によって経済が大混乱に陥っている最中であり、1932年頃の底を予見することなく、ただひたすらに株価が下落の一途を辿る時期にありました。

参考:1916年-1947年付近のS&P90チャート

上の画像で言うところの山の頂点が1929年、谷の底が1932年で、この間株価指数は80%を超える下落を味わっています。私たちも昨年コロナショックによって1ヶ月で30%の下落を経験しましたが、こちらは丸3年かけて落ち続けるという世界で、全く性質の異なるものです。

また、急激な下落を味わう前には山を駆け上がるように5年間で3倍以上の相場を経験していたこともあり、その失望感は今の私たちにとって、それこそ想像を絶するものであるように感じます。

エッセイの目的

そうした認識の下にありながらも、ケインズはこのエッセイに込める目的を次のように述べます。

でもこの小論での私の狙いは、現在や近未来を検討することではなく、短期的な視野による恥を逃れて未来に向けての翼を広げることだ。百年先の経済生活水準について、何がまともに期待できるだろうか?
孫たちの経済的な可能性とは何だろうか?

My purpose in this essay, however, is not to examine the present or the near future, but to disembarrass myself of short views and take wings into the future. What can we reasonably expect the level of our economic life to be a hundred years hence?
What are the economic possibilities for our grandchildren?

このように、名前にもなっている「孫たちの経済的な可能性」を模索することがエッセイの目的として掲げられています。

もちろん、ケインズが目先の検討を「短期的な視野による恥」とまで言うのは、ケインズなりの世界恐慌への認識あってのものです。
冒頭の世界恐慌における社会的な悲観論を踏まえつつ、続く一文で次のように述べています。

私は、これがいま起きていることについての解釈としてはまるっきりまちがっていると思う。私たちが苦しんでいるのは、古い時代のリューマチからではなく、あまりに急速すぎる変化の成長の痛みであり、ある経済時代から次の経済時代への調整の痛みに苦しんでいるのだ。

実際に、世界は結果的にこの世界恐慌を乗り越え、経済は20世紀21世紀と成長を続けています。
そうしたケインズなりの解釈と確信があるからこそ、その先にある孫たちの世界の話をしよう、そういうモチベーションですね。

経済問題の解決、あるいは解決の見通し

さらにその先、過去の歴史などを引用しながら自分なりの見通しと、経済の可能性を述べるケインズですが、「結論」として次のように記述しています。

さていよいよ私の結論だが、それは考えれば考えるほど、みなさんの想像力にとって驚愕すべきものとなっ てくると思う。
私が導く結論は、大きな戦争や人口の極度の増加がないとすれば、経済問題は百年以内に解決するか、少なくとも解決が視野に入ってくる、というものだ。これはつまり、経済問題は—将来を見通せば—人類の永遠の問題ではないということだ。

もう少し読み進めてみましょう。

これがなぜそんなに驚愕すべきなのか、とお尋ねだろうか。それが驚愕すべきなのは—将来を見る代わりに過去を見れば—経済問題、生存のための闘争は、これまでは人類にとって常に第一の、最も火急の問題だったからだ—人類に限らず、最も原始的な生命形態の開始以来、生物界すべてにこれは当てはまる。
だから私たちは明示的に、自然によって—そのあらゆる衝動と最も深い本能を通じて—経済問題を解決するという目的のために進化させられてきた。経済問題が解決したら、人類はその伝統的な目的を奪われてしまう。

つまりケインズが言うところの経済問題とは、人間が一人ひとり生存できるかどうかの戦いであり、経済の発展によりそれは難しいものではなくなるというものです。

自由をどう使うか、余暇をどう埋めるか

ケインズが出した「経済問題が解決するだろう」という結論を受けると、人類は次にこうした問題と向き合うことになるだろうというのが次の節で語られます。

つまり創造以来初めて、人類は己の本物の、永続的な問題に直面する—目先の経済的懸念からの自由をどう使うか、科学と複利が勝ち取ってくれた余暇を、賢明にまっとうで立派に生きるためにどう埋めるか
精力的でやる気に満ちたお金儲け屋たちは、私たちみんなを伴い、経済的豊かさの中へと導いてくれるかもしれない。だが、そうした豊かさの到来でそれを活かすことできるのは、人生のそのものの秘訣を生かし続けてそれをさらなる完成へと育める人々であり、自分自身の生活手段のために売り渡さない人々なのだ。

ケインズが言うところの「経済問題の解決」は、生きるためだけの生き方からの解放、または軽減を生みます。ケインズは一例的に「1日に3時間働くだけでよくなる」と言っていますが、そうしたときに生まれる自由や余暇をどう使うのかというのがケインズの問いかけです。

人々が望もうが望むまいが、科学と複利が経済問題を解決し、自由と余暇が経済的な豊かさとともに与えられるものの、そうした中で “活きていける” 人は、自らの人生をコントロールできる人に限られるということを言っていると理解しました。

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経済問題の解決としてのFIRE

さて、前置きが長くなりましたが、ここで目を現代に向けると昨今話題になっているFIREというものは、ケインズが予見した「経済問題の解決」を一足先に実現しているようなものと言えます。

労働から開放された完全なFIREだけでなく、月いくらかを稼ぎながら気ままに生きるサイドFIREなどはまさに「1日3時間働けば十分」というあり方にもマッチしているでしょう。

そうなれば、FIREした人にとってはこのケインズのエッセイの言わんとすることがより深く伝わるのではないでしょうか。

もちろん、強い充たされぬ目的意識をもって、富を盲目的に追求する人はまだたくさん残るだろう—何かそれに変わるもっともらしい代替物が見つからない限り。でもそれ以外の人々はもはや、そのことを称えたり奨励したりする義務を一切負わなくなる。というのも、私たちは今日安全であるよりもっと興味を持って、自然が大なり小なり私たちのほとんどに与えてくれた、この「目的意識」の真の性質を検討するようになるはずだからだ。

経済問題が解決し、「生きるために働く」ことが社会的に不要となったとき、人よりお金を多く持っていることがさほど人の興味を引かなくなるとともに、生きること以上の目的意識」がより重要視されるようになるだろうという文章です。

FIREの先にある目的はなんだろう

FIRE熱の高まりから、多かれ少なかれFIREへの憧れや希望を口にする人をよく見かけます。
そしてそうしたFIREのために家計を見直し、投資や副業に挑戦してFIRE可能な資産づくりを目指していく人もいるでしょう。

そうした投資や副業の目的は「FIREすること」で差し支えありませんが、それではFIREした先でどんな人生を歩んでいきたいかという問いに対する答えは何かと言えば、意外と聞いたことがないのではないでしょうか。

「会社勤めから開放されて気ままに生きたい」と言うものの、平日1日8時間、週40時間もの自由時間が与えられるとして、果たしてそれを何に使うでしょうか。

ケインズはこの厄介な問題について、次のように述べています。

しかしながら余暇と豊かさの生活を恐れず楽しみにできる人は、私が思うに、たぶん一人もいないだろう。というのも私たちはあまりに長きにわたり、頑張るべきであり、楽しむべきではないと訓練されてきてしまったからだ。特別な才能もない一般人にとって、没頭できるものを見つけるというのはおっかない問題となる。特にその人が、もはや伝統社会の土壌や習俗や愛されている慣習に何らルーツを持っていないのであればなおさらだ。

平日にぽっかりと空いた穴をどうやって埋めるかということは、イメージするよりはるかに難しい問題なのかもしれません。

富裕層という先兵

少なくとも、今の一般人から見て、現時点でFIREができている人たちは富裕層であると言って差し支えない人たちでしょう。年250万円で生きるとしても、4%ルールに基づけば1億円の資産が必要になります。

ケインズはこうした富裕層を「約束の地を偵察する、私たちの先兵(our advance guard)」と表現しています。
働かなくて済む世界を約束の地だとした場合、富裕層はその地を一足先に偵察し、そこに住んでいる人たちだというわけです。

ケインズはそうした富裕層による偵察がことごとく失敗していると述べていますが、果たして現代の先兵であるFIRE達成者はどのような約束の地を見出すのでしょうか。

FIREが話題になりだしたのはまだ最近ですから、より一般にFIREが浸透し、かつFIREのその後の事例まで聞こえてくるようになるにはまだまだ時間がかかりそうです。
従って、今のところはFIREのその後までを参考にできる事例は現時点でほとんどなく、断片的な情報で自分なりにイメージするほかはないのが難しいところです。

2030年まであと10年

ケインズが見据えた100年後は2030年にあたりますが、もうその時まで10年を切っています。

もちろん、このエッセイの内容がこの90年でその通りになったかと言えばそうでないことも多く、未だに経済問題は解決していないですし、あと10年でその見通しが立つことすら微妙なところに思えます。

一方で、世界恐慌を脱した経済はその後も何度かリセッションを挟みながら大きく成長してきました。

また、ケインズの時代にはまだそのアイデアはなかったかもしれませんが、AIやロボット技術の進展により、「働かない」のではなく「働けない」時代の到来すら予見されています。

ケインズが思い描いた2030年は経済問題が解決され「働かなくてもよくなる」未来でした。一方、米コンサルティング大手のマッキンゼーが描く予想図は働きたくても「働けなくなる」未来です。

AIやロボットによる代替が進み、世界の労働者の3割にあたる最大8億人の仕事が失われるとマッキンゼーは予測しています。労働者の武器が若さや肉体ではなく、スキルや知識にシフトしていることの表れだといいます。

このようなことを思うと、2030年ではないにせよ、そう遠くない時代に「望もうが望むまいが、働かなくてよくなる世界がやってくる」というのはあながち間違いではないのかもしれません。

ベーシックインカムの検討もちらほら聞かれますし、いつか訪れるものとして自分なりの目的意識を考えておいたほうがよいのかもしれません。

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まとめ

今回は歴史上でも指折りの功績を持つ経済学者、ケインズのエッセイを読みながら、昨今話題のFIREについて考えてみました。

ケインズが述べる通り、私たちは「生きるために働く」ということを全ての前提に位置づけており、いずれその前提が必要なくなった場合、何に向かって生きるのかは考えてみれば難しい問題かもしれません。

今回はFIREの先にあるものとしての目的意識にフォーカスしましたが、その目的意識とはFIRE固有のものでもなんでもなく、投資や副業の先で実現したいライフワークのようなものでもあります。

私自身も、こうやって誰に言われるまでもなくお金に関する内容を発信していますが、こうした日々の営みそのものと、自身の目的意識を問い直してみてもよいように思いました。

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参考記事

今回はFIREというトレンドを意識しつつ記事をまとめましたが、FIREは本来個々人によって具体的なあり方が変わるものです。

そういった意味で、もしFIREを志そうとするのであれば、何よりもまず「自分なりのFIRE像」をはっきりさせる必要がありますが、以前私自身の言葉でFIREを掘り下げた記事がありますので参考になればと思います。